私は浄土真宗の開祖・親鸞の教えに学んできました。いま親鸞はじめ仏教の教義を抽象的にではなく、現実の改憲や国家の動きとの関係でより具体的に考えることが大事だと患います。
日本国憲法の素晴らしさはアジアと世界の国々に対して開かれているところにあると思います。開かれているというのは人類の深いところにある平和への願いを表現しているからです。
それが憲法のどこに表れているかというと、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言です。そしてその理念を具体的な形にしたものが九条の「戦力不保持」と「交戦権の否認」です。
個々の命はみなそれぞれで生きなければなりません。そこから命は利己的になってしまうという面が生まれます。他方、浄土真宗で七人の高僧の一人とされる源信は、「地獄」とは、同伴者のない孤独だと言っています。
他者と支えあい
つまり、命は深いところで、他者と支えあっています。命は他者によって補われてはじめて命として成り立ちます。孤独は命の否定なのです。宗教は他者とともにありたいという人間の、あるいは命の根源的な願いに向かい合っており、それゆえ宗教は本来的に平和と不可分な関にあるのです。
人間が戦争を繰り返しながら長い歴史を生きのびてこられたのは、人々の平和の願い、公正と信義への信頼があったからです。
ところが人類は現代において、命の利己的な面の最も極端な現れである核兵器を出現させました。「ラッセル・アインシュタイン宣言」(一九五五年)は、「人類は核兵器と共存できない」と警告を発しました。生命の根源である地球も危機に面することになりました。
人類共存の原理
日本は唯一、核兵器を使用された国です。その体験によって、人類死滅の危機を回避するという課題に立ち向かうことになったのです。それが憲法を生み出した大きなエネルギーでした。
人類が共存できる原理は何かという問題に出合い、その答えとして「信頼」という精神に出合ったのです。武力でも核兵器でもなく、平和を愛する諸国民への「信頼」を力にするということです。憲法九条とその大本にある信頼の原理は、日本だけのことではなく、人類全体がそこへと進まざるを得ない歴史的使命と課題を表すものです。
改憲派は「公正と信義に信頼」という言葉を「空想だ」などと攻撃しています。しかし、この「信頼」は単純に出てきたものではなく、人類の全歴史を背景にしているのです。自民党の「新憲法草案」のように侵柊戦争への反省を投げ捨て、隣国を敵視し、自分だけが生き残ろうとするよう
な、世界に対し「閉じた」憲法に変えることこそ時代錯誤にほかなりません。
哲学はどこまでも疑うことを旨としますが、宗教は信義と可能性に向け自らの生のすべてを委ねるものです。信頼を基礎に平和を目指すという九条の可能性を否定してしまうことは、信仰をも否定するものだと私は考えます。
なかもと まさとし1940年石川県生まれ。東京都立大学大学院修了(哲学)。親鸞と清沢満之の仏教思想を中心に生きることを学ぶ崇信学舎の同人。「憲法九条in富山」呼びかけ人
<しんぶん赤旗>2006年12月20日付